最近の痛ましい事件に接して想うのですが、どこか他人事のような目線でいろんな事件を捉えている印象を受けます。これは自分も含めてですが。
もっと言えば、テレビ劇場を見入る観客のような視点です。
果たして、凶悪な犯罪や未曾有の惨事は、自分たちとは無縁なのでしょうか?
「自分はそんな事件は犯さないよ」と、きっとみんなそう思っています。それが、意識していようが無意識であろうが。
しかし、です。
犯人について、インタビュアーが近所の人に聞くと
「あんなに優しい人が、信じられません」
という声が映像と共にテレビ画面から時々流れてきます。
こんな光景を見るたびに
ごく普通の人が、突如として思考回路がショートしてしまったとしか言いようがありません。
自分自身を見つめてみますと、思考回路がショートしたことはありませんが、思考の迷路から抜け出せなくなったことは今まで何回もあります。
あとちょっとのところで、ショートしたかもしれません。
このように考えると、犯人と私たちは、犯罪を犯す一線を越えるかどうかだけの違いで、紙一重のような気がします。
自殺についても同じことがいえると思います。
では、その紙一重を越えるか否かの違いは何なんでしょうか?
たまたま、他殺や自殺のことに触れましたが、ありとあらゆる場面で紙一重のシチュエーションに出くわすと思います。
たとえば、事業で成功した人失敗した人、試験に合格した人合格しなかった人、野球で首位打者をとった人2位に終わった人など。
数えればきりがありません。
結局のところ、紙一重の一線を越えるか越えないかは、その人それぞれの「こころ」なのではないでしょうか?
他殺や自殺も、やけになったり、失望したりした結果ですから、「こころ」のあり様でだいぶ違うでしょうし、勝負事にしても、なにがなんでもという「こころ」が必要だと思います。
それならば、「こころ」を鍛えて磨こうと思うのですが。
これが、なかなか簡単ではありません。
でもよく考えてみると、これが生きる目的なのかもしれません。
私は、最近ことあるごとに次のように念じています。
幸せは「こころ」のなかにある。
上の写真は、私の好きな、名古屋の円頓寺商店街のある日の一枚です。
人が疎らで、昔ながらのホッとできる商店街です。ここを歩くのが大好きです。
商店街の方は、もっとにぎやかになって欲しいと願っているのでしょうが。